重症心身障がい児の母となった私の記録④【生後2カ月まで】

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管理人じめこの紹介

2017年に注文住宅で平屋の家を建てました。
現在夫と12歳の重症心身障がい(全介助・気管切開・胃ろう)の息子と暮らしています。
ワンオペ育児に加えて息子の急な体調不良や入退院なども多く働きたくても働けない40代専業主婦です。
そんな私がゼロ知識で本サイトを立ち上げ、家づくりや日々の出来事、おすすめ品や息子のことなど綴っています。
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はじめに

息子が生まれてすぐに愛情が芽生えたわけではありません。
実は息子の事を愛おしく可愛いと思えるようになったのは3歳くらいからです。

それまで体調の急変や緊急入院は当たり前、泣き続けるわが子を一日中抱っこする日々。
何が好きで何に泣いて怒っているのか分からず、ただがむしゃらに生活していたので愛おしむ心の余裕は存在しませんでした。
私は本当にこの子を愛せるようになるのかしら?と思ったものです。

それでもこの小さな子を守らねばという使命感だけで必死で子育てをしていました。

母性?
本能でしょうか。

それが愛情なのかもしれませんが、私の息子への愛の自覚は後からついてきたのです。
夫も同じで息子と生活するようになってもしばらくは可愛いとか愛おしさとか分からなかったようです。

だってね、最初のうちは障害とか病気とか睡眠不足とか、聞いたことない治療や医療ケアとか受け入れることに必死ですもの。

分かっています、子供が一番頑張っていることも。

でも傷ついた母親や家族も歯を食いしばって涙流しながら障がい児育児してるんです。

そんな家族は誰がケアするの?
自分で強くならなきゃだめですか?

私は子供だけではなく家族のケアも同じくらい大事だと思っているのです。

これからの時代、障がい児がいても絶望感に苛まれず、生活に落胆しない制度や福祉サービス、温かい支援の手が増えることを願っています。


今回は【生後2カ月まで】の記事です。

▼前の記事はコチラ↓
>>>重症心身障がい児の母となった私の記録③【生後20日まで】

1500g未満での水頭症手術

転院から3日目に水頭症の手術は行われました。息子が生まれて20日目のことです。

脳室拡大がすすみ、私から見ても息子の頭が以前よりも大きくなっているのが分かりました。

小さな息子の体が手術に耐えれるのか心配でしたが水頭症の進行が止められないので承諾するしかありませんでした。


手術の日、もうあまり覚えていないのですが保育器に入れられた息子を手術室まで泣きながら見送ったような気がします。

その後家族控室に通され終わるのを待つことに。

この頃私達は病院に愛着もなく普通に接している医師や看護師さんでさえとても冷たいと感じていました。
これは最初に受け入れもらえなかった不信感が払拭しきれてなかったからだと思います。

はじめからご覧になりたい方はコチラ↓
>>>重症心身障がい児の母となった私の記録①【妊娠後期まで】


術後、面談室に通され執刀医にスムーズに手術がすすんだことと、その時はじめて脳に障害が出るかもしれないとも説明を受けました。

ただ脳には可塑性があり、ダメージを受けたり失われた脳の機能を別の脳の部分で補うことがある、特に赤ちゃんの脳の可塑性は非常に高いのでこれから沢山刺激を与えてあげてくださいと教えてもらいました。

説明が終わり息子に会うと頭からシャントと言われるストローみたいなものが刺さっていました。
このシャントで脳の圧や水を抜くのだと説明を受けたと思います。
(※実はこのあたりは色々なことが起りすぎて記憶が曖昧で受けた説明もあまり思い出せなくなっています。)

医師から障害ということを聞いた時、動悸が止まりませんでしたが、多くの刺激や環境で障害が残ることなく脳の機能が回復するんだとその時は少しホッとしたのです。
帰りの車の中では私達夫婦は可塑性の話ばかりなったのは言うまでもなかったです。

クラシックを聴かせようとか沢山外に連れ出そうね、とか。

絶望の中にも少しだけ希望が見えた瞬間でした。

ただ何年もの間、息子に刺激を与えなくては、外に連れ出さなくてはとこの可塑性が私の呪縛にもなってしまい心身共に疲弊してしまったことも事実です。

1回目の壊死性腸炎

生後23日目の朝、私のスマホに主治医から連絡が入りました。

息子が壊死性腸炎を起こしていると伝えられ、今日はいつ病院に来られますか?と。

主治医の口調が落ち着いていたので緊急性はないものと思って面会の開始時間には行きますと返しました。
少し早く来てもらえますか?と言われたので着替えて夫婦で向かうことに。

私達夫婦は息子に会うまでは壊死性腸炎がどういうものかわからず水頭症の術後なのでちょっとしんどくなってるのかなと思っていたくらいでした。

着いたら医師たちが息子を取り囲んでいてました。

見ると息子のお腹がパンパンに膨れ体全体が黒い黄色のまざった土気色のようになっていたのです。
膨れ上がったお腹はテカテカと変に光沢があり身動き一つ取らないまるで人形のようでした。

毎日病院にいき、面会時間の始まりから終わりまで滞在していたし、水頭症の術後も順調で前日も特に異変に気付くことはなかったのですが今の息子は命を落とすのではないかと思ったくらい痛々しかったです。

私はその姿が今でも忘れられません。

事の重大さにやっと気づき状態を聞きました。
主治医は相変わらず落ち着いた口調(※のちに感情や口調が表に出ない医師なんだと分かりました)で説明しました。

腸の一部が破れそこから便が漏れて毒素が体中に回っている、簡単にいえばこういうことでした。
手術室に移動する余裕もないのでこのNICUのベッド上で開腹手術をして交換輸血もするというのです。

壊死性腸炎とは?

腸の壁の一部が死滅することによって引き起こされます。主に、未熟児や低出生体重児、および早産児に見られることが多く、腸内細菌の異常増殖や、酸素欠乏などの原因が考えられています。

壊死性腸炎は、治療が遅れると、合併症として腸閉塞、穿孔、敗血症などを引き起こす可能性があり、重篤な状態になることがあるため、早期発見・早期治療が必要です。

手術の同意書のサインも迷っている暇はありません。

私達が到着してほどなくベッドの周りにパテーションが張られ慌ただしく手術が始まろうとしていました。
そこからはNICUを出され、無機質な家族控室で待つことに。

待つ間夫も私も不安とショックすぎてずっと会話がありませんでした。

だってまだ生後23日目だよ。
水頭症の手術したばっかりだよ。
早産なんだよ。

こんなことばかりが頭を巡ります。

何時間後かわかりませんが無事に手術は終了。

息子に会うと小さな小さな体に沢山の管が繋がっていて何本も点滴がついていました。
そして交換輸血の機械がクルクルと回っていた気がします。

交換輸血はとても有効な治療方法であるけれど全身の血を入れ替えることは体に負担もかかり最悪の場合亡くなることもあると手術前に主治医から説明を受けていました。

無事に手術が終わったとてこの状況に全く安心できず、その日は本当に一日が激動で夫婦ともぐったり疲れて家に帰りました。

 

次の日も病院にいき息子の無事を確認。
状態が急に変わるので目で見るまでは安心できませんでした。

水頭症の手術後すぐに壊死性腸炎になり息子は鎮静をかけられていたのでずっと寝ていました。
私は何をするわけでもなく面会時間終わりまで居続けました。

抱っこも沐浴もできないので体をふくだけ・・・。
あと寝ている息子のそばで私が出来たことと言えば、胃まで続く栄養注入用のチューブを止めるテープにメッセージや絵を描くことくらい。
あ、それと看護師さんとの会話と人間観察。(※そんなじろじろ見てないですよ)

それくらいしか出来ることはなかったのですがそばにいたかったんです。

生後27日目で2回目の壊死性腸炎

心配していた交換輸血は大きな問題もなく、息子のお腹の張りや皮膚の色も少しづつ改善してきて安堵の気持ちがわき始めたところに2回目の壊死性腸炎が起ったのです。

生後27日目のこと。

私達は何がどうしてこうなるのか全く頭がついていかず言われるがまま手術を任せるしかありませんでした。

幸い2回目は早くに発見されたため息子の全身状態がひどくなるまえに手術に挑むことができ、もう一度お腹を開いて壊死した部分を除去し今回は人工肛門を付けることになりました。

術後息子は人工肛門を付けて出てきました。

お腹に開けた穴から腸を外に出し、それを取り囲む袋(オストメイトバッグと呼ばれる)を通じて排泄物を体外に排出するのですが、新生児の緑っぽい便がそこから出るのです。

私は初めて見るので不思議だし、痛くないのか心配でたまりませんでした。

そして主治医から次に同じことがないようしばらく人工肛門の置いて体重を増やし時期をみて再手術をして閉じることにしましょうとなりました。

その時人工肛門は一生ではないのかとホッとしたことを覚えています。

おかげで壊死性腸炎が再発することはなく、水頭症の進行も落ち着き、頭に付いていたシャントもいつのころだったか無くなっていました。

生後2か月の終わりには体重も2100gまで増え、私の面会生活も慣れてきていました。


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