重症心身障がい児の母となった私の記録③【生後20日まで】

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管理人じめこの紹介


2017年に注文住宅で平屋の家を建てました。
現在夫と12歳の重症心身障がい(全介助・気管切開・胃ろう)の息子と暮らしています。
ワンオペ育児に加えて息子の急な体調不良や入退院なども多く働きたくても働けない40代専業主婦です。
そんな私がゼロ知識で本サイトを立ち上げ、家づくりや日々の出来事、おすすめ品や息子のことなど綴っています。
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はじめに

悲しい出産の思い出も今では息子の誕生日が来るたびに夫と『大変だったよね~』と思いかえす年に一度のルーティーンになっています。
そして赤ちゃんの頃の育児の辛かった思い出も同じように振り返れるように。

振り返りが出来るようになったのは長い時間を経て心にゆとりが出来たから。
その期間に経験や人との縁が出来たのはメリットではありますが、本音は心のゆとりを持てるまで長い時間は要したくなかったです。

その時、そのタイミングで助けてほしかったし支援してほしかったし、障がい児だけど何とかなるねと安心したかった。

障がい児育児って一筋縄ではいかないですもの。

定型の子と違うのは成長するにつれ育児が楽になることは必ずしもないということ。
成長は嬉しいことなのに障がいある子にとっては発作の変化や側弯、嚥下障害など新たな問題が起こるきっかけになるのです。
そして親はその都度対応をしていかなければなりません。

これからの時代、親が頑張りすぎず安心して障がい児を育てれる環境作りが早急に進んで欲しいです。
私はこの体験談を通して重症心身障がい児を知ってもらい当事者や家族に優しい世の中になることを願っています。

今回は【生後20日まで】の記事です。
最初からご覧になりたい方はコチラ↓


>>>重症心身障がい児の母となった私の記録①【妊娠後期まで】

初対面後

私の体調も徐々に回復していき自分の入院病棟から息子の新生児NICUまで毎日面会に通いました。
息子は赤黒かった皮膚がいつの間にか黄黒く変わっていき黄体の値が高いようで光線治療が開始。

スヤスヤ眠っている息子を触ったり抱っこさせてもらったりできるようになり1000g弱で小さく生まれましたが自発呼吸もしてくれて、その時は大きな問題もなく保育器の中で順調に成長しているように見えました。

母乳マッサージ開始と心のケア

生後3日に対面を果たした私は母乳が出やすいよう看護師さんによる「母乳マッサージ」が始まりました。

担当看護師さんはスパルタだよと事前に聞いていたので恐怖だったのですが痛みに耐えて頑張ったかいあって母乳も出始めました。
最初は、早産でも出るの?って疑問だったのですが人間の体の順応力ってすごいもので出るんですよね。

息子は吸う力が弱かったため口から胃にチューブを通して母乳を与えていました。最初はほんのちょっとの注入量でしたが日増しに与える量も増えていき搾乳と面会で入院生活を占めるようになりました。

当時の私のマインドは、息子と面会が始まり少しづつ他人事から自分事に変わり置かれている立場を理解できるようになりました。
小さく生んだことに対して申し訳なく思っていたし、相部屋の他のママさんの幸せそうな様子がうらやましかったし、なぜ自分だけ?と思うことも。
ベッドで1人になると沈んでしまうことが多かったです。

でも病棟やNICUの看護師さんには弱音や息子への申し訳なさなど吐き出せて、その時は心を落ち着かせることが出来ました。
何より医師から息子の一日一日の頑張っている様子を聞くことが嬉しく安堵したことを覚えています。

そして出産から10日後、一足先に私が退院となりました。
1人家に戻ってからは昼夜問わず搾乳しそれを毎日片道2時間かけて届けに行きました。

ただその遠い病院通いはすぐに終わることに。

生後14日の息子の変化

息子は哺乳の力が弱く頑張っても10㏄が精いっぱいでしたが、経管栄養で少しづつ体重は増えていき特に大きな問題はないように見えました。

先に退院して数日たった頃、医師から夫婦そろって面談がありました。

それは水頭症が起っているということでした。

救急搬送時の母体の容態がとても悪かったため胎児に十分な酸素と栄養が行き届かず、脳の損傷が起り脳室が少しづつ拡大していると聞かされました。

水頭症とは、脳や脊髄の表面を流れる“脳脊髄液”の循環や吸収に異常が生じ、脳脊髄液を産生する場である“脳室”が拡大する病気のことです。

途中から不安で何も耳に入ってこず、順調に成長していたと思っていたのに急なことで胸の動悸が止まりませんでした。

そして転院の説明も受けたのです。

小児脳神経外科がないこと、今後の事も考えて家から近い病院が良いだろうと医師が転院を勧めてくれました。

そこは奇しくも私が一番最初に救急要請を打診してほしいとお願いし断られた家からほど近い大病院でした。

▼詳しくはコチラ↓


転院先を聞いてから悔しい気持ちと今更なんで?とモヤモヤした感情が押し寄せてきました。
それは夫も同じだったようで、あの時受け入れてくれなかったのにと腹が立ったそうです。

今となっては転院後のかかりつけ病院として息子をよく診てもらいとても感謝しています。
けれど、あの日、私達を受け入れできない状況だったにせよ、断られたことはずっと心に残っていてあの時受け入れてくれていたら現状違ったのでは?という気持ちは捨てきれません。

このモヤモヤは一生消えることはないですね。


夫婦とも複雑な心境でしたが息子の命には変えられません。
転院を決め、そこからの流れはとても早かったです。

生後1カ月前の転院

転院の当日、お世話になった医師や看護師さんにお別れを告げ私と息子は救急車に乗ってその病院をあとにしました。
たった17日の入院でしたが、どこも受け入れてくれない中、私達2人を助けてくれて私の心のケアまでしてくれたことは感謝してもしつくせないです。

そして1500gにも満たない小さな小さな息子の体は保育器に入れられたまま新しい病院に到着。

外観からして大きな病院と分かっていたのですが、中に入ると受付ロビーもとても広く、設備や病室も充実していて診療科も沢山ありました。

医師や看護師、患者さんなど常に人が行きかっていて本当に大きな病院でした。
通されたNICUはとても広く、新生児の人数の桁違いなこと。

到着してすぐに医師からの説明があり、手術までに少しでも体重を増やしたいのと脳室拡大の進行がゆっくりなのとで緊急手術はしないということでした。

しかし徐々に脳室拡大のスピードが増したことで3日目には手術することになったのです。
生後1カ月も経っていませんでした。

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